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太宰治に倣う働き方 [人事労務]

年が明け、1月は早くも行ってしまいました。
2023年の目標は、ブログを月2本は書くべく努力をする、でしたが
すでに2月も中旬になりました。

さて、昨年の話になりますが、2022年11月27日(日)に
みたか観光ガイド協会が主催される、作家・太宰治が住んだ三鷹市内の
ゆかりの地を巡る定例ガイドウォーキングツアーに参加してきました。

きっかけは、朝日新聞の朝刊でした。
コロナで2年ほど中段していたガイドツアーが、9、10、11月の第4日曜日に復活するが
太宰がこよなく愛していたという「三鷹陸橋」の撤去が決定している、という記事を
たまたま目にし、なぜかこのツアーに妙に惹かれてしまったのでした。

そこまで、太宰ファンというわけではないのですが、
太宰が愛したというその風景を、もう2度と見ることができなくなる前に
自分の目でも見ておきたいと、ふと思ったのです。

しかもこのツアー、参加費無料、予約不要、雨天決行という豪快さです。
本好きの知人を誘い、なんとか予定をすり合わせて
11月27日に5人で参加することができました。

当日は晴天。雲一つない青空です。また晴れ女の実力を発揮してしまいました。
ですが、気温は低く風が強く、集合場所の三鷹駅南口デッキ上は
駅ビルの影響で日陰か多く、冷たい風がびゅうびゅう吹いていました。

しかし驚いたのは、集合時間の9時50分までまだ時間があるのに
50人はいようと思われるたくさんの人が、すでに集まっていました。
やはり、太宰は根強い人気があるのですね。さすがです。

みたか観光ガイド協会のみなさんは、手慣れた様子で参加者を
パッパッとグループ分けされていました。
私たちのグループは5名でちょうどよい人数だったのか、他の人と一緒になることはなく、
小谷野さんという方がついてくださいました。
後から分かったことですが、なんとこの小谷野さんは、協会の代表を務められる方でした。
ラッキー。

小谷野さんの丁寧で分かりやすいご説明とともに
太宰治の軌跡を巡るウォーキングツアーが始まりました。
三鷹駅を出発し、千草跡、野川家跡を見学し、それから玉川上水に沿って
太宰と心中した山崎富栄が入水した場所へと向かいました。

千草跡には、太宰が通い詰めていた小料理屋があったそうで
太宰はここの2階を仕事部屋にしていました。
野川家跡には、山崎富栄が借りていた部屋があったそうです。
太宰と富栄は、死に向かい、ここから2人で旅立ったのでした。
これは、私も一緒に参加したメンバーも知らなかったのですが
この時太宰は、病名ははっきりしないが、おそらく肺の病に侵されており
かなり末期の状態であったようでした。
ふと見ると、野川家跡の向かいに、葬儀会社がありました。
なんと、太宰の葬儀を執り行ったのがこちらの会社さんだったそうです。
太宰を弔った葬儀会社が今も現存され、堅実的に経営されているのだなと思うと
何やら感慨深い気持ちでした。

太宰入水の地には、碑などは特に建てられていませんでした。
通りを挟んで設置された「玉鹿石」が目印になるそうです。
ふと疑問になり、なぜ「太宰入水の地」といった碑をたてないのか
小谷野さんに質問したところ、太宰のご遺族が嫌がったからだと。
そりゃそうですよね。

当時の玉川上水に入ることは、地形上、不可能に近かったそうです。
流れも非常に早く、太宰の遺体もかなり流されてしまい、
ほとんど井の頭公園に近いところで見つかったそうでした。
今と比べると、道もかなり悪かったことでしょう。
すでに病に侵されていた太宰は、咳や喀血がひどい状態だったとか。
そんな身体を引きずって、死出の道を進む太宰の目には、何が映っていたのでしょうか。

そこから、みたか井心亭、太宰が三鷹に来て初めて住んだという太宰治旧居跡、
太宰治文学サロン、中鉢家跡と巡りました。
中鉢家跡でも、太宰は仕事部屋を借りており、ここで「ヴィヨンの妻」前半などを書いたとか。
太宰ほど著名になると、自宅にたくさんの人が訪問するので仕事にならず
5つくらい仕事部屋を借りていたそうです。

太宰は、1日に書くのは原稿用紙5枚まで、と決めていたそうです。
そして仕事する時間も、10:00から15:00までの5時間のみ、と。
15時過ぎると、すぐに呑みに行ってしまったようです。
(打合せです、小谷野さんは言っておられましたが)
現代日本人に比べると、自分主体でゆとりがあり、ある種優雅ともいえる
理想的な働き方ができていたのではないかと感じました。
今の働き方改革のおいて、太宰に倣うべきところが多々あると感じました。。

そしてツアーは、いよいよ中盤へ。ついに「三鷹陸橋」へと向かいます。
この陸橋は、中央線の線路を跨ぐようにかけられており
昭和4年に竣工した時のままだそうです。
現在の持ち主はJR東日本だそうですが、維持費に年間3千万かかるため
やむなく撤去が決まったということでした。
撤去時期は未定だそうです。

陸橋は、思った以上に高い位置にかけられておりました。
今は、落下防止のためのフェンスがありますが、
昔はこれらは無かったのでしょう。
ここに上って、風がびゅうと吹くと、さぞかしスリルがあるのでは。
石階段を上る時もスリリングで、おそるおそる上っていき
陸橋から広がったその風景は、いやはや絶景かな絶景かな、見事!というものでした。
都内でこのような風景を見ることができるなんて、信じられません。
この日は雲一つない晴天だったのですが、昔と大きく違うのは
マンションがちょうどその方向に建ってしまったので
富士山が見えにくくなっているということでした。
マンションは決して悪くありません。

太宰がこの陸橋を歩いた時は、高い建物などほとんど無かったため
天気の良い日などは、富士山がくっきりと見えたことでしょう。
陸橋の下は、中央線が長く延びて続いています。
親子連れが電車が下をくぐるのを待っていて、電車がくる度に手を振っていました。
運転士さんからもその光景が見えるようで、この陸橋をくぐる時は
必ず汽笛を鳴らしてくれるそうです。

いつかは取り壊される三鷹陸橋。太宰はこの陸橋を毎日のように散歩していたそうです。
陸橋を渡り、眼下に広がる風景を見て、太宰はいくつもの小説を考えたついたことでしょう。
1日で机に向かうのは10:00~15:00まで。
書くのは1日5枚まで。
そんな働き方の中で、あの数々の名作が生まれたのです。

私が読んだのは、『人間失格』、『斜陽』、青森県中学在籍時にすでに書いていたという
短編集くらいですが、もっとたくさん読んでみようと思いました。
惜しくも39歳の若さで亡くなってしまいましたが
太宰治が日本を代表し、日本が誇る本物の文豪であることは間違いありません。
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